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【特別インタビュー】「ニット糸偉人伝」第二回 柴田孝幸氏

・インタビュアー(Q):滝宏明

・柴田孝幸氏(A):元滝善販売部及び、製造部チーフ 

         現市川染工総務部リーダー

糸に携わり半世紀

■ 第1章:シルバーの「デボネア」が運んだ縁

――柴田さんの歩みが始まったのは、1977年(昭和52年)3月9日。あの日から丸49年が過ぎ、今まさに「50年目」という半世紀の節目に突入されました。タキゼンとの出会いは、どのようなものだったのでしょうか。

柴田: きっかけは、私の兄と、後にタキゼンの重鎮となる水野さんが友人同士だったことですね。「求人が出ているぞ」と兄から教えられ、面接に向かったのが始まりでした。

――当時のタキゼンの勢いを象徴する、驚きのエピソードがあるとお聞きしました。

柴田: ええ、あれは今でも鮮明に覚えています。面接当日、一宮駅まで迎えに来てくれたのが、シルバーに輝く「三菱・デボネア」だったんです。当時の三菱が誇る最高級車ですよ。その重厚なドアを開け、革の香りに包まれた瞬間、「とんでもない会社に来てしまったな」と圧倒されましたね。

入社後には、若手ながらそのデボネアのハンドルを握り、当時の社長を伊丹空港まで送迎することもありました。

――当時の本社の熱気は、どのようなものでしたか。

柴田: まさに「躍動」の一語に尽きます。当時は新館の建設が急ピッチで進んでいる最中で、私は歴史を感じさせる旧館で面接を受けました。

新館が象徴する「未来への飛躍」と、旧館に染み付いた「伝統の糸の香り」。その二つが混ざり合い、建物全体から圧倒的なエネルギーが溢れ出していました。まさに「良き昭和の時代」の熱気そのもの。あの活気の中に身を投じたあの日が、私の50年にわたる長い旅路の出発点でした。

■ 第2章:開発・企画時代 ── トラック1台で全国を巡った熱狂

――最初の配属は開発部でした。

柴田: はい。開発といっても、当初の私の主な仕事は配送や見本の出荷作業でした。しかし、今振り返れば、あの泥臭い時間が何よりの宝だったと感じています。毎日、膨大な種類の糸に触れ、仕分け、梱包し、送り出す。その繰り返しの中で、理屈ではなく「指先」が糸を覚えていったんです。

素材の重み、独特の手触り、撚(よ)りの強さ……。出荷作業を通じて身体に染み付いた感覚が、私の血肉となりました。まさに「職人の目」が養われた、私の原点と言える時期でしたね。

――その後、全国の展示会を回られた。当時の産地の熱気は凄まじかったそうですね。

柴田: ええ。自社展示会のために、2トントラックに荷物を積み込んで、大阪、東京、山形、新潟と日本中を走り回りました。当時の会場はどこも黒山の人だかりで、まさに「熱狂」そのもの。編地(サンプル)を求めるお客様が殺到し、私はその場ですぐにお渡しできるよう、手にハサミを握って会場中をカットして回りました。

――柴田さん自身のヒット作も、この熱い時代に産声を上げたのでしょうか。

柴田: はい。綿レーヨン糸の『ダルオン』などは、確かな手応えがありました。この頃、ブラザーの講習に通って編み機の操作を習得したことも大きかったですね。「糸を作る」だけでなく、それを自らの手で「形(編地)」にできるようになったことで、ものづくりの深みが劇的に変わりました。

素材の真価を自分の言葉で語れるようになった。そして、今やタキゼンの象徴となった「和紙糸」の完成に立ち会えたのも、この情熱溢れる時代があったからこそ。あの「飛ぶように売れる産地の熱気」は、今でも私の胸に焼き付いています。

■ 第3章:若き獅子の挑戦 ── 最初の東京営業(昭和62年〜)

――昭和62年、28歳。一宮での「ものづくり」の経験を携え、ついに「東京営業」への辞令が下りました。当時の心境はいかがでしたか?

柴田: 本社でようやく「糸」のことが分かり始めてきた自負はありましたが、東京は全く別の世界でした。当時の日本はまさにバブル経済へと向かう狂乱の入り口。アパレルメーカー、商社、デザイナー……あらゆる才能と欲望が渦巻く巨大市場に、20代の自分がどこまで通用するのか。不安よりも「この戦場でやってやる」という高揚感の方が勝っていましたね。

――当時の東京営業所は、どのような雰囲気だったのでしょうか。

柴田: 凄まじいスピード感でした。毎日、ひっきりなしに電話が鳴り、私はサンプル帳を抱えて都内を走り回りました。一宮では「いかに良い糸を作るか」が主でしたが、東京では「この糸をどう価値に変え、どう売るか」という、よりシビアな真剣勝負が求められました。

――この「最初の東京時代」が、キャリアにおいて最もやりがいがあったと伺いました。

柴田: ええ。この時代が私を「真の営業マン」に育ててくれました。自ら開発に関わった『ダルオン』や、完成したばかりの『和紙糸』を手に、デザイナーや企業の担当者と膝を突き合わせて語り合う。自分の提案した糸が、洗練された東京のブランドで服になり、華やかな店頭を飾る。その光景を目にした時の達成感は、言葉では言い表せないほど格別でした。

――その分、苦労や葛藤も多かったのでは?

柴田: もちろん、甘い世界ではありませんでした。厳しい納期、極限の品質要求、そして競合他社との激しいシェア争い。時には理不尽な要求に頭を下げ、時には一宮や新潟の工場と東京の顧客の間で板挟みになりながら、必死に調整に走る日々でした。

でも、その「苦しさ」こそが面白かった。自分が動くことで、止まっていた仕事が回り出し、大きな数字に繋がっていく。20代の多感な時期に、商売の醍醐味と厳しさの両方を東京で叩き込まれたことは、私の生涯の財産になりました。

■ 第4章:江南製造部での「孤独な決断」と、組織の要石(かなめいし)

――平成2年、31歳。営業としてまさに脂が乗っていた時期に、江南の製造部へと異動されました。営業マンにとって、製造現場への異動は大きな環境の変化だったのではないでしょうか。

柴田: まさに「青天の霹靂(へきれき)」でした。それまでは「いかに売るか」だけを考えて全国を走り回っていましたが、今度は「いかに滞りなく出荷し、いかに現場を回すか」という、タキゼンの心臓部を司る守りの任務。それも、全国の営業から寄せられる膨大な受注をすべて受け止め、限られた工場のキャパシティと照らし合わせながら差配する「司令塔」の役割です。

――ここは組織の「守りの要」であり、同時に最もストレスのかかる場所でもありますね。

柴田: 製造部は、営業の熱意と工場の生産能力を合致させる「調整の最高機関」です。ここで判断を誤れば、現場は瓦解し、お客様への納期は守れない。まさにタキゼンの信用を一身に背負う場所でした。半世紀のキャリアの中でも、ここでの「調整力」と「判断力」の行使は、最も精神を研ぎ澄まされた経験だったかもしれません。しかし、この時期があったからこそ、私は「組織全体を俯瞰する視点」を手に入れることができたのです。

――営業と現場の「板挟み」に悩む日々だったと伺っています。

柴田: ええ。営業からは「一刻も早く出荷してくれ」と矢のような催促が来る。一方で、現場のキャパシティには限界があります。無理をさせれば品質が落ち、重大なミスに繋がる。その間で、何を優先し、何を後回しにするか。毎日が、自身の良識を問われる「決断」の連続でした。責任の重さに、当時は本当に胃が痛む思いでしたね。

――その極限の「調整」の中で、柴田さんが最も大切にされていた信条は何ですか?

柴田: 現場の人間、そして営業の両方と「とことん話すこと」です。単にデータや数字だけで判断するのではなく、実際に現場へ足を運び、職人たちが今どんな状況にあるのかを肌で感じる。同時に、営業マンがどれほど必死にその注文を勝ち取ってきたのか、その背景にある熱意を理解する。両方の言い分を汲み取った上で、納得感のあるベストな解決策を提示する。泥臭い対話の積み重ねですが、それが私のやり方でした。

――その経験は、後の営業人生にどのような影響を与えましたか?

柴田: 多大です。糸がどのように管理され、どのような工程を経てお客様に届くのか。その「裏側」を完璧に把握したことで、後の営業活動において、無理なものは無理、できるものはこうすればできる、という確固たる根拠に基づいた提案ができるようになりました。製造部での日々は、私に「組織全体を見る目」を養ってくれた、かけがえのない修業期間でした。

■ 第5章:東京 ── 厳冬の時代と、かけがえのない出会い

――40歳を過ぎ、再び東京営業へと戻られます。しかし、かつてのバブルの狂乱は去り、時代は一変していました。

柴田: まさに「厳冬の時代」でした。かつての「作れば売れる」時代は終焉を迎え、非常に厳しい局面が続いていました。しかし、そんな苦境の時代だったからこそ、私の人生にとって最も大切な「縁」に恵まれることとなったのです。

――その最たるものが、現在のご夫人との出会いですね。

柴田: ええ。2006年頃、システム関連のヒアリングを通じて、当時新潟事務所にいた今の妻と出会いました。実は当時、茶目っ気からか、自分の年齢を少々ごまかして伝えていたんです(笑)。そんなやり取りも、今となっては微笑ましい思い出ですね。仕事がどれほど厳しく、商況が冷え込んでいても、人との温かな縁が支えになる。私のタキゼン人生を象徴するような、幸福な出来事でした。

――また当時の東京では、水野氏、堀部氏との共同生活という、ユニークな日々も送られていました。

柴田: 平日は東京の拠点で、同志である水野、堀部の両氏と寝食を共にし、夜が更けるまで糸の未来や組織の悩みを熱く語り合う。まさに「戦友」との合宿生活であり、どこか修学旅行のような瑞々しい日々でした。

平日は東京で仲間と切磋琢磨し、週末は新潟で心身を癒やす。この「動」と「静」の調和が、どんなに厳しい商況であっても私を突き動かし続ける、唯一無二のエネルギー源となったのです。

■ 第6章:新潟赴任 ── 「人間・柴田」で挑んだ産地再生

――2016年、かつての輝きを知る新潟事務所への赴任。しかし、そこで柴田さんが直面したのは、ニット産地の衰退という極めて厳しい現実でした。

柴田: はい。かつての活気は影を潜め、ニット工場が次々と姿を消していました。自社で発注をコントロールできる拠点が激減し、これまでのやり方が通用しない。タキゼンの「看板」だけでは、一ミリも糸が動かない時代になっていたんです。そこで私は、会社の看板に頼るのではなく、私という「一人の人間」を窓口にする営業へと大きく舵を切りました。

――そこで柴田さんが取った行動は、まさに「人間力」の極致とも言えるものでしたね。

柴田: 顧客との関係を極限まで深めることに徹しました。例えば、自社の糸で対応できない要望があれば、たとえ他社の糸であっても私が窓口となり、責任を持って手配し、お届けする。「柴田が動いてくれるなら、すべてお前に任せるよ」と言っていただけるまで、泥臭く向き合い続けました。

産地の灯を絶やさないために、会社の枠を超え、一人の人間として信頼を勝ち取ること。それが、私が半世紀の営業人生の果てにたどり着いた、ひとつの「正解」でした。

■ 第7章:67歳の現在 ── 市川染工での「終わりなき挑戦」

――そして2026年、現在67歳。昨年子会社化した「市川染工」において、柴田さんは今、全く新しいステージに立たれています。

柴田: ええ。現在は週の半分を市川染工で過ごし、「経理・総務・人事」というバックオフィスのリーダーを務めています。半世紀、営業や製造の最前線にいた私にとって、数字と組織を司る管理部門は、まさに未知の領域、未踏の戦場です。

――67歳にして新分野のリーダー。戸惑いや不安はありませんか?

柴田: 正直に言えば、毎日が勉強の連続で、新しい発見ばかりです(笑)。しかし、どんなに職種が変わっても、仕事の根底にあるものは同じだという確信があります。一つひとつの数字に、そして一人ひとりの社員に、どこまで誠実に向き合えるか。

市川染工がタキゼングループの強固な礎(いしずえ)となるための土台作り。これこそが、私の人生における「終わりなき挑戦」です。かつてデボネアに導かれて始まった私の旅は、今、新しい現場で再び熱を帯びているんです。

過去の「ニット糸偉人伝」はこちら

【特別インタビュー】「ニット糸偉人伝」第一回 堀部幸嗣氏 | 株式会社 滝善